2012年 02月 10日

私の履歴書〜第三章〜

私の履歴書〜第三章〜 
佐藤 正

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工場に入ると驚いたのが暑さ、何と工場内は30℃前後、

暑い時は35℃まで上がるといいます。

エアコンは一部の部屋しかなく、それも温度管理がシビアな部品用とのこと、

とにかく暑い!

この暑さでも作業者の方々は平気で作業をしてますが、

さすがに34℃近くでは暑いらしく、32℃を超えると屋根に設置した

ホースから水をまいて温度を下げる工夫をしています。

面白いのがエアコンの設置された作業場で、現地の人は人工の冷風が嫌いみたいで、

見ていないと部屋の窓を開けているのを時々見かけます。

そこでの作業は精密部品の組み立てを行っており、

組み付ける前の部品寸法精度が求められます。

温度により変形する樹脂等の小型精密部品を守るためにエアコンがある訳ですから、

窓を開けてるなんて品質上のトラブルの元、厳しく注意しますが余り理解されませんでた。

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2008年の長期出張当時は、PT.ASTの生産品目は、

セットステレオのスピーカーが主力製品で、

取引先は出資会社のパイオニアがメインでしたが、その他ソニー、ケンウッド、

ビクター、シャープ等々ちょっと異色なのが、ヤマハのギターアンプ、パイオニア

のサラウンドステレオアンプ内蔵サブウーハー、

それと、当時話題になっていたプラズマTVのスピーカーなどでした。

材料の調達ですが、木材(MDF.パーティクルボード)は近隣の住友林業の工場から仕入れ、

スピーカーは台湾や中国、インドネシア国内の日本企業等から仕入れ、

段ボール箱は国内から仕入れてました。

その他の材料は全て工場内で生産して、製品組み立てラインに供給していました。

日本国内では、最終組立ラインの計画に沿って外部部品メーカーに納入指示を出せば、

生産直前に工場に部品が納入され、完成品生産に必要な部品全てが揃います。

ASTでは梱包材やSPBOX、前面板や各種小物パーツまで生産計画を

組んで生産指示を行ない、しかも各生産工程で使用する材料まで計画に合わせて

注文するという、膨大な作業を生産管理が担っていましたが、

生産管理経験者がおらず増産による混乱に拍車が掛っていました。

PT.ASTの人員状況は
日本人約10名、中国人3名、インドネシア人約1300名という体制でした。

投稿者 itc-job : 09:17 | コメント (2) | トラックバック(0)

2012年 02月 1日

私の履歴書〜第三章〜

私の履歴書〜第三章〜 
佐藤 正


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前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、

やっとインドネシアでの仕事の話に入ります。

内容は長期出張時代と赴任時代の二部構成とします。


インドネシアはご承知の通り、

赤道直下の国で約1万8千島々から構成されています。

人口は約2億3千人で世界第4位、

その半数が首都ジャカルタのあるジャワ島に住んでいます。

私が赴任したところはジャワ島の丁度真ん中あたりに位置する、

スマランという地方都市でした。

スマランはインドネシアでは五大都市のひとつとされ、
(他にジャカルタ、スラバヤ、メダン、バンドン)

約140万人が住んでいて、田舎ながらも結構活気のある街でした。

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組合を退任した後、しばらくは木工生産を管理(生管・購買・資材・外注)

する業務に就いていましたが、インドネシアに住友林業と合弁で設立した、

PT.ASTという会社が増産体制構築に苦労しているから、

「長期出張になるが現状調査をして、改善案を考えてくれないか」

との命令を受け、出張ならばという軽い気持ちで引き受けましたが、

これが以降のAST赴任のきっかけになるとは思いもしませんでした。

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現地に着いてまず驚いたのが、

人の多い事とその顔がみんな泥棒に見えた事です (^_^;)

まず空港ではやたらに傍に来て荷物を運んであげるとか、どこに行くんだ?

案内するぞと言っては何かとお金を請求されますし、タ

クシー運転手も強引な客引きをして来ます。

悪徳商法みたいなもので、絶対にそのような人を信じてはいけません!

きちんとしたポーターが居ます。

タクシーも車に会社名が入ってますが、

基本的には個人タクシーが多いので気をつけた方が良いです。

健全なタクシーは(ジャカルタではブルーバード)

(スマランでは同系列のコスティ)で車の色は青ですが、

悪徳業者も車を青にしてブルーバードもどきのタクシーがありますので、要注意です。


現地到着が夜なので、空港のホテルに泊まって、

翌日ローカル線の空港までタクシーで移動して、現地までフライトしました。

現地スマランの空港で出迎えがあり、

工場に行く前に現地の住居を確認しに行くと、

周りを柵で囲まれて入口には守衛が配置された大きな団地に到着。

スマランにある外資企業の駐在員や家族が住んでいるといわれており、

治安の悪いインドネシアでも、なんとか安全に暮らしていけそうな場所でした。

住む家は一軒家の大きな家(日本基準で)、入ってすぐ20畳位の居間があり、

片隅には食堂や台所部屋はバス・トイレ付の10畳位の広さで、

1階に1部屋、2階に3部屋あり、駐在員が2名住んでます。

女中は2人居て、食事や掃除・洗濯等々をしてくれます。

投稿者 itc-job : 08:54 | コメント (26) | トラックバック(0)

2011年 08月 19日

私の履歴書〜第二章〜

私の履歴書〜第二章〜 
佐藤 正


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 なぜHE事業から撤退し映像事業に特化したかと言うと、

人間の情報は80%近くが視覚情報であるからです。

パイオニアは歴史的に素晴らしい映像技術を開発しており、

レーザーディスク、ブラウン管最高画質のSEED、

そして当時大画面最高画質のプロジェクションTV等々が

製品化されていましたので、次世代TVの開発拠点として

今後の可能性に賭けた訳ですが、結果的に良い結果に

つながりました。


以降、静岡パイオニアでは村上新社長の下で

「さあ、やらまいか」を合言葉に、社員一丸となって事業

発展に取り組み、世界初のHDプラズマを世に出すことが

でき、安心して支部長の任から離れることが出来ました。


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 しかし、途中私がインドネシア赴任中に、村上社長が

退任され、企画や設計がパイオニア本体に異動、

静岡パイオニアも生産に特化した体制になり、社名も

パイオニアディスプレイプロダクツとなってしまいました。

ここから業績の変調が始まり、幻の名器「KURO」も

誕生しましたが、製品の良さと業績は同期せず徐々に

悪化して行き、ついには数回のリストラを実行せざるを

得ない状況にまで追い込まれました。

各種リストラによっても業績は一向に回復せず、周知の

通り、パイオニアはTV事業から完全撤退してしまい、

パイオニアディスプレイプロダクツも会社を清算し、

1996年から続いた工場の歴史に終止符を打ちました。


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〜その他組合時代の思い出〜


PWUでは、支部長は中央執行委員も兼ねているので、

本社での労使協議会や中央執行委員会等々、新幹線を

利用して目黒まで通っていましたが、課題が山積していて

週2回位の頻度で通っていた時期もありました。

ある時切符を買おうと窓口に行き、12号車の切符を

下さいと注文したら、切符に禁煙のマークが (~_~;)

係員に、これは間違いじゃないかってクレームしたら、

「ダイヤ改正時、お客様のご要望により禁煙車両を増加

させていただきました。」とのこと、そんなバカな話はない!

禁煙希望のお客様って乗車人員の何割を占めているのか

調査したのか?利用者の喫煙率調査は?

していないんだろう?適当なことを言っちゃいけないよ!

ってちょっと八つ当たりしてしまいました。

タバコの値段のなかには旧国鉄の借金返済分も入って

いるのに、それを忘れて喫煙者の肩身を狭くさせる

JRの行為はちょっと如何なものかと思うのは

私だけでしょうか (-。-)y-゜゜゜


次回は海外赴任(インドネシア)時代の話です。

投稿者 itc-job : 08:05 | トラックバック(0)

2011年 08月 12日

私の履歴書〜第二章〜

私の履歴書〜第二章〜 
佐藤 正

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支部長になって最初に手掛けた仕事は会社の経営状況を

知る事でした。

組合員を守るとは会社を守るのと同じことだと感じてい

たからです。

会社の業績向上は働く人の待遇改善にもつながります。

もしそうでないなら働きがいや生きがいは生まれませんし、

モチベーションが下がって業務効率が下がり、結果会社業績

の悪化につながります。

逆に業績が悪くなって来た時は、組合として各事業の実態を

知ると同時に、会社の視点とは違った立場から会社に対して

意見をぶつけていかなければ、業績向上の可能性が低くなります。


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 静岡工場はホームエレクトロニクス(HE)製品のメイン工場

であった為、不況の影響が顕著に現れ、生産高は対前年比50%

ダウン、会社内や周りの地域では操業停止や売却の噂が飛び交っ

ていました。

そんな逆境の中だから経営提言活動を活性化させ、組合員の雇用

を守るためありとあらゆる手を尽くしました。

PWUでは各支部長が集まって合宿しても議論ばかりで提案がま

とまらず、思い切って静岡独自案を披露し、静岡閉鎖論に傾いて

いた流れをえることに成功し、中央執行委員会の提案として会社

に持ちかけました。


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PWU提案の趣旨

 .僖ぅニア静岡工場を静岡パイオニアとして独立させる

 ⊇抄醗は新会社に転籍する、但し希望者はパイオニア籍のままとする

 E樟匕紊竜詬燭鰐鵤隠亜腺隠機鵐瀬Ε鵝△靴し給与差額は向
  こう10年間分を一括支払する

 た群饉劼六業会社とし、メインは映像関連事業とする  
  生産のみならず、企画・設計も含む


以上のような提案を組合員に説明したところ、

 (社賛成、自分達の働く場を確保して欲しい
  地元採用の人達(約半数) 

 ∧社の必要なし、工場を閉鎖して売却すべし 
  転勤者の人達 (約半数)


その他様々な意見が出されましたが

「賃金は失われ(ダウン)ても取り戻すことが出来ます

が、雇用は失われたら取り戻すのは困難」

この信念に基づき、現場に入って組合員一人一人の方と

徹底的に意見交換し、最終的には分社化に対して

組合員の皆様から合意を得る事が出来、新会社で頑張る

ことを全員で決意しました。


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こう書くと簡単に事が進んだように見えますが、分社まで

の道のりは長く険しいもので、日々針のムシロ状態で、突

然右耳が耳鳴りがしだして聞こえなくなりました。びっく

りして耳鼻科に行くと突発性難聴とのこと ???

なんかとってつけたような病名ですが、れっきとした病気

です。治癒率40%はきびしいです。

現在も治ってませんので、治療は諦めて長く付き合って行

くしか無いのでしょうね。

投稿者 itc-job : 11:20 | トラックバック(0)

2011年 08月 5日

私の履歴書〜第二章〜

私の履歴書〜第二章〜 
佐藤 正

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 これまでパイオニアでの仕事の話をしてきましたが、

これからちょっと違った経歴をお話しましょう。

組合活動にあまり積極的ではなく、また、仕事が忙しく

て組合とは距離を置いていた私ですが、1987年10月

に生産管理から異動したのをきっかけに、待ってましたと

組合幹部の方が執行部入りを熱心に勧めてくれ、

1990年8月に組合活動に参加する事となりました。

入ったきっかけは組織内議員の選挙対応として2年間だけ

で良いからと言われ、その位なら受けてもイイかなと思っ

たからなのですが、その時はそれ以降7年も活動を続ける

とは思いもしませんでした。


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組合の組織を少し説明すると
連 合 :日本労働組合総連合会
電機連合:全日本電機・電子・情報関連産業労働組合連合会
       昔は電機労連と称してましたが、連合という
       上部団体が出来たので、名称を連合に統一連合
       には様々な産業別組合団体が加盟していますが、
       電機連合は極めてナチュラルで中立的な考えを
       持ち、「美しい地球・幸せな暮らし」を基本理念としています。


PWU  :パイオニア労働組合 電機連合に加盟
       各地の工場毎に組合支部を結成し、私は静岡支部に所属


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 最初の仕事はパイオニア労働組合(以下PWUという)

静岡支部の副執行委員長という仕事でした。

会社の仕事をしながら組合の仕事もするというハードな

業務でしたが、組織内議員のトップ当選という使命に

燃え、選挙戦完全勝利への戦略を立て、収集された地域

情報の分析を基に各種戦術を立案し、組織を通じた行動

を起こすというサイクルを何回転も回し、開票日に事前

に算定した予測得票数を上回る数字が選管から発表があ

った時は鳥肌が立つのを覚えました。やっぱりトップ当選

で完全勝利するっていいもんですね。


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選挙が終わって組合から離れられるかと思ったら、バブル

崩壊の影響でパイオニアの業績も徐々に悪化して行き、

メイン工場である静岡工場もそのあおりを受け大幅な生産

のダウンとなりました。

生産がダウンすれば生産に従事する人員の削減が進み、

契約社員の方々から会社を去っていかれ、最後に正社員の

削減に手が掛るのは時間の問題かと考え、組合を去るので

はなく支部執行委員長として組合員の生活を守る活動に専念

したいと、思い切って執行委員長に立候補しました。

投稿者 itc-job : 12:10 | コメント (22) | トラックバック(0)

2011年 07月 22日

私の履歴書〜第一章〜

私の履歴書〜第一章〜 
佐藤 正

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静岡での業務はセットステレオの生産現場からスタート、
動作・調整・検査等々を経験し、協力会社の管理をする事に
なるのですが、明菜のプライベートがヒットして
生産現場は増産に次ぐ増産、新たな取引先を開拓しては生産が
順調に立ち上がるまで毎日深夜まで張り付き、
体はクタクタで睡眠不足の連続、ある時東名を走行中に居眠りをしてしまい
中央分離帯を走ったことも、後日その場所を通りましたが、
芝生がえぐれていてタイヤの跡がしっかり残っていたのを見た時、
良く死ななかったものだと反省し以降の安全運転を誓いました。
その後生産管理に配属になりパイオニア時代では一番長く
担当した業務になりました。

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生産管理に配属され計画作成に携わりましたが、引き継ぐ前の
生産計画は手計算・手書きでの計画作成、その後パソコンの登場により
若干の効率アップが出来ましたが、システムは
CPUは8ビットで外部メモリーは8インチのFD、
プリンターはドットインパクトという構成、今から見れば
電卓に毛が生えたような代物で、残業しても処理しきれず徹夜も多々あり、
朝出勤してきた何も知らない社員に「早いですね」なんて事も、
妻曰く、その頃は寝言にアルファベットや数字が出てきたみたいです。
その後のコンピュータの進化は目覚ましく、
CPUも16ビットに進化し、外部メモリーは20GBのHDD、
プリンターはレーザープリンターになった事により、
業務効率は劇的に速くなり徹夜は激減しました。
その後IBMのAS400が導入され、
工場全体のシステムが統合出来素晴らしいシステムが立ち上がりました。

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個人的にはスタンドアローンのパソコンで、
担当者の意のままに管理出来た旧システムが使い易かったのですが、
材料の発注から製品出荷まで一元で管理出来るシステムは
時代の流れでしょう。
 しかし、なんの問題もなく工場全体が稼働していれば良いのですが、
そんな事は滅多に無い訳で、
生産進捗に合わせた細かい変更や
各部門でのトラブルによるイレギュラー処理などは、
各種処理規制に掛り、システムを騙すのに多大な労力を使った事がありました。
今ではL/Tも短縮され、システムも処理速度が向上し
複雑な仕事をこなせるように進化しましたので、
私達の苦労は良き思い出話です。
 この経験がンドネシア工場に導入されたシステムを本来の姿にすべく、
生産管理担当としてボクに白羽の矢が立ち、
強制赴任のきっかけになりました。

投稿者 itc-job : 08:30 | トラックバック(0)

2011年 07月 8日

私の履歴書〜第一章〜

私の履歴書〜第一章〜 
佐藤 正


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 縁あって結婚したのはいいけど、若かった二人の結婚
ですから生活はギリギリで、何とか共稼ぎで暮らしが出
来て居ましたが、 子供が出来たことでボク一人の稼ぎ
で暮らさなければならず、この時も貧乏で本当に貧乏の
棒は長いもんだと実感しました。

しかし、高度成長期の真っただ中であったために、大幅
な昇給や妻の再就職により生活は徐々に安定して来て、
これからやっと都会の生活が満喫出来ると思っていたと
ころに、静岡への転勤命令が出されました。


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 勤務地は袋井市にあるパイオニア静岡工場、妻の実家
は御殿場市の隣小山町なので、静岡への転勤は同じ県内
で近くなるってご両親とも大喜びでしたが、転勤先住居
は磐田市、これまでの川崎市より距離的に倍位遠くなり
がっかりしてたのを今でも覚えています。
娘は近くに居るのが良いんでしょうね。
引越時は東名で移動したのですが、御殿場ICを過ぎて
もうすぐだなと気楽に運転してたら、なかなか袋井IC
着かず御殿場から約2時間も掛ってしまいました。
静岡県って横に長い県だなとびっくり。

 それ以外に静岡で驚かされた事は沢山ありますが、一
番のびっくりは方言です。工場に入って若い男に「おい」
って呼び止められた時には、なんだなんだ喧嘩でも吹っ
掛けるのかと思って、振り返ってキッと睨みつけたら、
ニコニコしながら話しかけてきたのには流石に面喰い、
どう対応して良いのか迷っていたら、近くで若い女性の
声で「お〜い」っていう声が???、単なる呼び掛けの
言葉だったのです。
方言や習慣の違いは日本各地いっぱいありますので、ト
ラブルにならないように気をつけたいものです。


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そう言えば静岡でプラズマを担当していた時、鹿児島へ
出張して小さなトラブルがありました。

日本酒が好きなボクは居酒屋で「お酒」って注文したら、
なんと出てきたのはイモ焼酎ではありませんか。
店員に苦情を言うと「ご注文通りです」との事、「こち
らではお酒と言えば焼酎です、日本酒はちゃんと日本酒
ってお願いします」って注意まで。他に気がついたのが
醤油は甘く、普通の醤油はキッコーマンですって!?


投稿者 itc-job : 08:24 | トラックバック(0)

2011年 06月 24日

私の履歴書〜第一章〜

私の履歴書〜第一章〜
佐藤 正

 
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 社会人の第一歩は、東京都大田区蒲田にあるパイオニア
の大森工場です。ちょうどオイルショックの頃であり、大
森工場の同期入社はたったの5名だけ。本社や営業・技術
とその他工場をあわせても100名前後という大変狭き門
でした。なぜ入社できたのか、自分でも不思議です。


配属は製造部門でビス止めから製品の組立。その他にも調
整・検査・梱包など何でもやらされましたが、その時の現
場経験が後で配属された部門に活きた経験となりました。

生産管理部門では、現場の仕組みを理解した生産計画立案
ができ、急な販売からの要求にも現場の意見を取り入れた
計画変更や、逆に無理な販売の要求にも応えていただける
信頼関係がありました。


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 大森工場でのいちばんの思い出は、世界でNo1のオー
ディオ製品を作っている工場だという誇りが、工場全体に
満ちていた事です。あの頃はオーディオ御三家といって、
パイオニア・山水・トリオ(現ケンウッド)の三社が古株
のコロンビアやビクターなどを抜いて業界をリードしてい
て、その中でもパイオニア若干リードといった状況でした。

入社時に横浜の青葉台寮に入ったのですが、持ち込んだス
テレオセットは・・・なんとトリオ製でした。
先輩から「そりゃいかんだろ!」の一言で処分する羽目に。
ただ、バイトで苦労して買った愛着あるセットだったので、
泣く泣く友人に譲りました。
そして次に購入したのは勿論パイオニア製です。


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 そうそう。もうひとつ忘れてならない出来事が。
それは入社1ヶ月もしないあり時、伊豆箱根鉄道横浜営業
所に勤めていた叔母さんの家に行った時、バスガイド仲間
のお姉さん達に囲まれ至福の時を過ごした朝にその事件は
起きました。

なんと体が動かないではありませんか!
そう!二日酔いでのダウンだったのです。
純だった私は、その旨を素直に上司へ報告したところ
「入社1ヶ月もしないで二日酔いで休むなんて初めてだ」
という厳しいお言葉を頂戴しました。

それ以来、深く反省して『深酒』は極力しないように努め
ていますが、いまだにその努力の効果は薄いような気がし
ますが、気のせいでしょうか?
「 ・・・いいえ本当です!」(外野の声)


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 その頃の趣味は、ステレオを卒業して写真へと移ってい
きました。(だってステレオは仕事と一緒ですもん!)

各駅停車に乗って、今でいう『ぶらり途中下車』って感じ
で、各地の風景や人物を撮っていましたが、風景だけでは
面白くないので、しまいには社会派写真家気どりで都内各
地の『今』を切り取って写真にしていました。

撮影したものを寮に持ち帰って暗室で現像し、フィルムの
感度や解像度、印画紙の種類など変化をつけて楽しんでい
ましたが、最終的には写真より各地を旅行する方がメイン
になってしまいました。
仕事があるので日帰りがメインですが、民宿に泊まって会
話を楽しむ事もあり、ストレス解消の一助となりました。


ある時・・・
熱海の梅園へ行った帰りに、余りにも遅くなったので滅多
に乗らない特急列車に飛び乗り、横浜へ戻る車内で運命の
出会いが・・・
(良き出会いだったか???今が幸せだからきっと・・・)

そう。
現在の妻となる素敵な女性と同席になったのです。

投稿者 itc-job : 09:26 | コメント (15) | トラックバック(0)

2011年 06月 10日

私の履歴書〜第一章〜

私の履歴書 〜第一章〜
佐藤 正


今回から4回にわたって『私の履歴書』なるものを書こうと思った
ものの、自分の人生をそんなに簡単に書けるものではなく、書き出
しからつまづいて先が思いやられ、引き受けたことを若干後悔して
いる次第です。

人生を振り返ってみると、誕生から今日まで節目となった事項があ
りますので、それに従って書き進めていけば一応形にはなるものか
と思い、乱筆ながら筆を進めさせていただきます。


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生まれは今の仙台市太白区に男ばかり3兄弟の次男として生を受け、
極貧の少年時代を過ごしました。
実家の屋号は『鍛冶屋』となっていて、幼い頃は鍛冶屋の孫と呼ば
れてましたが、遡ること三世代前までは屋号の通り、鍛冶屋を営ん
でいたのですが、事業に失敗し多額の借金を抱え、本当にこれ以上
な貧乏はないと思うほどの暮らしぶりでした。

今でも思い出すのは、近所の友達が殆ど幼稚園に通っていたので、
みんなが連れだって幼稚園に行く時間は家に隠れていて、居なくな
ってから一人で遊んでいた事や、ある時母に「なんで家(うち)は
貧乏なの?」と聞いたりして、母に泣かれた事もありました。
今振り返ると本当に大変な環境で育ったんだなと思います。
貧乏の『棒』は長いって言いますが、今でもその貧乏癖は抜けずに
いて、スーパーで買い物をする時は時間調整をして売り場に行き、
値引きシールが張ってあるのを見るとなんとなく幸せな気分になっ
てしまいます。


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小学校からの趣味は読書。
図書委員になって図書室に入り浸り、全ての本を読破。これはお金
が掛かりません。そこでSF小説と出会い、今日まで綿々と続く長
い付き合いになってしまいました。

中学校からは、オーディオフェアーで初めて聴いたステレオに魅了
され、オーディオが趣味になりましたが、なんせお金が無いのでア
ルバイトをして部品を購入し、自作しては楽しんでいましたが、製
作に失敗する事も多々、ある時はシャーシに漏電していて感電、あ
る時は過電圧で火を噴く、ある時は過電流でスピーカー破損等々…


この趣味が後の自分の仕事になろうとは思ってもみませんでした。


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